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「動的平衡」(福岡伸一)としての生命

福岡伸一さんの新著「動的平衡」(木楽舎刊)を読んだ。「動的平衡」という言葉は、生命という存在が、何か固定された実体ではなく、生命という「効果」を産出する諸物質の、絶えざる分解と合成という流れの中に一瞬だけ立ち現れる「分子の淀み」であることを、1930年代後半に発見したシェーンハイマーが、その特有のありように対して与えた名前だ。福岡さんは、長い間忘れられていたこの言葉の持つ根源的な意味を再発見して自らの思索のキーワードに据え、近年次々と注目すべき著作を発表してきた。。

私が福岡さんの著作に触れたのはまだこの1年足らずにすぎないが、日頃買った書籍を積んでおく事の多いにしては珍しく、「生物と無生物の間」(講談社)、「ロハスの思考」(木楽舎)、「できそこないの男たち」(光文社)、そして本書と立て続けに4冊を読み終えた。彼の発信するメッセージはそれほどにも知的な刺激に満ちている。

この快感は、おそらく15年以上前に岩井克人さんの「貨幣論」(筑摩書房)を読んで以来のことだと思う。岩井さんはこの本の中で「貨幣とは人々がそれを貨幣だと信じる何かに他ならない」という驚くべき知見を記述していた。そういえば、岩井さんの主著の題名は、「不均衡動学の理論」( theory of disequilibrium dynamics)だ。「動的平衡」の英訳は「dynamic equilibrium」だから、この二つの概念は見事に対極を成している。

「生物と無生物の間」の中で、福岡さんは生命という現象を、寄せては返す波に洗われて砂粒を奪われていく砂の城に喩える。奇妙なのは、それにも関わらずこの砂の城が存在し続けていることだ。彼は、その理由として、海の精霊達が、絶え間なく砂粒を運んで城を修復していることを指摘する。のみならず、壊れる前から、精霊達は壊れそうな場所をあえて壊し修復と補強を率先して行っているのだと驚くべきことを告げる。しかも、当の精霊達もまた分解しては合成される砂粒の固まりなのだ。
つまり、砂の城は確かに存在し続けているけれども、数日前にこの城を構成していた砂粒は 一粒も留まっておらずすっかり入れ替わってしまっていることになる。
砂粒を自然界を循環する主要元素と読みかえ、海の精霊を生体反応をつかさどる酵素や基質に置き換えてみよう。この砂の城こそが生命なのだ。

「全ての原子は生命体の中を流れ、通り抜けているのである。」
「1年ほど会わずにいれば、・・・かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。」
「私達生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい『淀み』でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れ自体が『生きている』ということであり、常に分子を外部から与えないと、出て行く分子との収支が合わなくなる。」
だから私達は食べなければならない!文字通り、「汝とは『汝の食べた物』である。」

福岡さんは、新著「動的平衡」において、さらに進んで、世の中に瀰漫する「生命=機械論」、すなわち生命を取り替え可能な無数のパーツの寄せ合わせとみなす流行の遺伝子工学や、それを安直に医療・食料生産技術に応用し、強欲なビジネスに悪用している世界の現実を、透徹した科学的知見に基づいて、痛烈に批判する。
「生命はどんどん分解していくと部品になる。2万数千種類のミクロな部品。その部品(タンパク質)は今ではどれも試験管内で合成することができる。ではそれを機械のように組み合わせれば、生命体となるだろうか。否である。合成した2万数千種類の部品を混ぜ合わせても、そこに生命は立ち上がらない。」

それは何故か?この問いに対して福岡さんは、「生命というプロセスがあくまでも時間の関数であり、それを後戻りさせることは不可能だ」と答える(「動的平衡」)。「生物には・・・常に不可逆的な時間
の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度折りたたんだら2度と解くことの出来ないものとして生物はある。」(「生物と無生物の間」)。だから、人間はもとより、一つ一つの生命の全てが、その本質からして再現不可能なオンリーワンなのではないか、と福岡さんは言うのだ。

さて、福岡ワールドのつたない紹介はこれ位で十分だろう。興味のある人には、ぜひとも氏の著作をひもといて欲しい。ただ一つだけ付け加えたいことがある。生命が絶えざる分解と再生という流れの中に一瞬だけ立ち現れる「分子の淀み」である、というのはもちろん偶然ではない。それのみが、持続可能(サステナブル)で永続するシステムなのだ。生命が可変的で持続可能なのは、可変的でなければ持続できないからに他ならない。変化できないものは全て消滅する他にないのだ。
「私達の身体を(構成する)分子は環境(自然)からやってきて・・・次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。つまり環境は常に私達の身体の中を通り抜けている。・・・そこにあるのは、(分子の)流れそのものでしかない。」(「動的平衡」)。
環境(自然)が生命であり、生命が環境(自然)である。存在しているのは、生物と無生物を一つなぎにして時空を貫くただ一つの大循環だけなのだ。こうして、古代ギリシャのヘラクレイトスによる「万物は流転する」という洞察が甦る。

「動的平衡」の最終章に、ケープタウンの岸壁のこちらとあちらにいて、超低周波音で語り合う偉大な母親象と母親鯨についての美しい描写がある。生息地を追われた彼女たちは、滅亡を目前にしているのだ。著者は言う。「自然界は歌声で満ちている。・・ヒトはただそれが聴こえないだけなのだ。」と。

(角田 記)